くまゆうむ

YMOりあるたいむへんたいよいこくまゆうこころとめでぃあの日記改め

「出来心」の回だとか昔のクイック・ジャパンのいんたびうのこととか

今回は、ちうか、これまでも何度かあったけどかなり物議を
かもし出した回だったずらね、タイガー&ドラゴン八話目「出来心」の回。
先週がネ申杉ですごい綺麗にまとまってたから余計にそう思うかもずらね。
けっこう見終わってこうなんつうか引っかかりが…みたいな。確かに
バイオレンスの気配がひたひたと近づいてきてたりラストでヤスオが出てきたりで
実際に次回につづく!てバーンとくさびを打たれたし。ちっとこころが
砂利砂利したかもしんないけど、ふんでも、あれはあれでおっけぇら。
それにどうしてもヤクザ色濃厚なとこばっか、つい印象に残りがちだけど
今回も他に見せ場いっぱいあったし、ちうかこのドラマて下手したら全部の場面、
全セリフが見どころで聞きどころら。超濃密果汁濃縮還元製法てかんぢなにそれ。
終盤の虎児が下げ言って拍手する人たちの顔見てなんともいえない顔する
虎児見るだけどぞぞぞぞぞぉって鳥肌立ってダム決壊なみだがだぁぁーっ!
嗚呼どうかどうか最後にこの人に幸せになって欲しい。虎児が幸せな最終回熱烈キボンヌ。


とか思いつつ映画館行けば弥次喜多やっててテレビぢゃタイドラやってて
まさに今あんたの時代だよクドカンてかんぢで思い出す昔のクイック・ジャパンの
いんたびうの宮藤官九郎『俺の時代が来る夢を見た』ていうやつ

2001年2月17日発売クイック・ジャパンvol.35
●表紙:宮藤官九郎坂本慎太郎
●特集『宮藤官九郎 俺の時代が来る夢を見た』
インタビュー/関連作品データ集
特別対談・宮藤官九郎×坂本慎太郎ゆらゆら帝国)など


宮藤:小四ぐらいから、下の姉の影響で『宝島』や『ビックリハウス」を読んでたんです。
糸井重里さんとかが表紙の頃。姉の部屋には『日本の脇役』みたいな本とかもあって、
成田三樹夫石橋蓮司とか(笑)。「おお、渋い渋い!」って。「姉ちゃんはすごいな」って思ってた。
「スネークマン・ショー」を姉がリアルタイムで聴いてたから、僕も聴いてました。
まわりは横浜銀蝿とかが『ザ・ベストテン」などに出てる頃で、あれはダサイって思ってました。
いやもう、心の中では本当はすごく好きなんですけど、姉がよくテレビ観ながら
「ダサイダサイ」「やっぱりYMOだ」と言ってたんで。
だから僕も「ああYMOだ、そうだね」と(笑)。
で、「ライディーン」とかをソニーの赤いテープで聴いてた。


●ああ、ありましたねえ、帯が赤いソニーのテープ……。
それで、宮藤少年はホントに「ライデイーン」はかつこいいと思ってたんですか?
宮藤:思ってなかったですね。っつーか、「歌ないじゃん!」っていうのはすごくありましたね。
まあ、とにかく二番目の姉ちゃんとは、結構密接な関係があったんですよ。


●釣りやってる宮藤くんと、ウチで「スネークマンショー」を聴いている宮藤くんの問に、
葛藤というのはなかったんですか?
宮藤:あんまり友達には言わなかったですね。銀蝿やたのきんトリオとか出て来て、
そっちはそっちで熱くなるし。で、僕もまあ一応付き合いで『ザ・ベストテン」を録音したり。
でも明らかにやっぱ、姉ちゃんが知ってるものの方が面白いというか、
高級な感じがしましたよね。で、ちょうどどテレビは『オレたちひょうきん族」とかをやってて、
なんかそういうのに坂本龍一さんや忌野清志郎さんが出たでしょう。
そうすると次の日学校でみんな騒ぐんですけど、もう俺はずいぶん前から知ってるぜ、と。
それがけっこう優越感でした。そういう方向では、絶対負けたくなかったですね。
俺は何でも知ってる、と。糸井重里を知ってるんだぜ、と(笑)。


●でもそれ、友達に通じる優越感ですか?
宮藤:通じないです、だから心の中で(笑)。
友達と泥まみれになって遊んでても「俺は家帰ればYMOだ」と。


●でも、学年に一人くらいは、通じる友だちがいたりするんじゃないですか?
宮藤:唯一、その自転車屋さんの息子には通じた。
『宝島』の「VOW1」とかね。向こうはビートたけしさんのことが好きだったなあ。
田舎にいると「田舎にいること」がすごくイヤだったりするもんでしょう。
でも、僕は高校出たら田舎にはいないと、かなり早い段階から決めてたんですよ。
俺はこの街から出て行くんだっていうそんなかっこいいもんでもないんですけど。
だってこの街には大学ないし、って。今のうちに遊んどかないと損だな、と思って
山で遊んでましたね。

てかんぢでこの辺とことか読んですごい超超超超シンパシーてかんぢで笑ぃ。
あちきはクドカンほど早くなかったけど中学校入って演劇部入って音効さんになって
そこで他の子が持ってきたそりっどすてーとさう゛ぁいばぁーでYMOの洗礼受けて
教授にひと目惚れして新聞広告欄の宝島の教授いんたびう見て本屋に走って
初宝島してあとは転がる石のごとくさぶかるまっしぐらだったけどやっぱし
学年に何人かしか、そういうこっちがわの子はいなかったからすごいわかるぅてかんぢで
→『友達と泥まみれになって遊んでても「俺は家帰ればYMOだ」と。』いうやつ泣笑。
クドカンの存在をちゃんと認識して、ねこだいすきになったのは、
2000年の池袋ウエストゲートパークちう、まったくもっての若輩者でございまして、
てかんぢなあちきだけど多分こういうのがあるから彼の創りだすものがスコーンと
ツボってねこむちうになんのかもしんないとか思ふ今日この頃。